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世界の歴史

目次


ヨーロッパにおける都市の起源

ヨーロッパ世界は東方の古代文明に比して、遥かに後発の文明として出発した。
前800年頃鉄器時代に入った。

ケルト人

年代出来事
前500年頃~前1世紀頃インド・ヨーロッパ系語族のケルト人がヨーロッパに進出。(500年間)
前4世紀にはイタリア半島に進出
前2世紀中ごろまでイタリア半島のローマ人(ラテン人)と覇権を争う
前50年ガリア地方(現在のフランス)はケルト人の戦士貴族集団により支配されていたが、カエサルのガリア遠征により、ケルト=ガリアの世界はローマの支配下に組み込まれていった。

ゲルマン人

年代出来事
4世紀(375年)東方からのフン族の進攻に耐えかねた東ゴート族の大移動をきっかけにゲルマン諸部族のローマ帝国内への移動、定着が継続する。
476年東ゴート系のゲルマン人傭兵隊長オドアケル、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスをローマから追放、以後西方では皇帝は不在となった

ローマ人の動き

ラテン語の果たした重要な役割

ローマ法という法典の受容

ローマ人の残した都市の建造物

キリスト教の浸透

年代出来事
4世紀(313年)コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」を発布。キリスト教が公認される。(ローマ帝国は元来多神教を奉じる国家。)
392年テオドシウス帝によってキリスト教国教化(キリスト教会は公認以前からローマ帝国の行政組織に沿って教会の組織化を進めて行った。地中海沿岸地方を中心とするローマ帝国領内ではキヴィタス「都市区域」ごとに信徒を統治する司教がおかれた。各地の教会組織をつなぐ形で帝国全体に広がる組織が4世紀の間に形成されていった。)
初期のキリスト教の教義は統一されておらず、協議をめぐる争いが続いた
4世紀イエスが神か人間か、三位一体説の中の「聖霊」の役割等、アリウス派とアタナシウス派の論争が行われた。
325年第一ニカイア公会議、三位一体説を奉じるアタナシウス派の主張が正統とされる。
381年コンスタンティノープル公会議、アリウス派とアタナシウス派、両方の主張を取り込んだ形で三位一体説を認めつつ、イエスは人性と神性をともに有するとされた。
イエスに人性を認めるアリウス派は、その後ゲルマン人諸部族によって広く受け入れられていくことになった。
4世紀までローマ司教は、ローマで殉教した使徒ペテロの後継者、すなわちローマ教会の長として全キリスト教会への首位権を主張し、その主張は西ローマ帝国の領域に¥老いて一般的に認められるようになっていった。
西ローマ帝国内部の行政組織、ゲルマン人の大移動で解体していく中、ローマ教会の組織はその変動を乗り越えて存続する。
5世紀ローマ司教、教皇という称号のもと、西方キリスト教会の長としてふるまうようになる。(他方、コンスタンティノープルの主教も、ローマ教皇(司教)と並ぶキリスト教会の長(総主教)としての権威を帝国東部で発揮)(西方、ラテン語 東方、ギリシャ語)
5世紀末メロヴィング王朝の始祖クローヴィス(在位482年頃~511年)が王妃の影響を受けてカトリックへ改宗したエピソード。
6世紀頃ローマ・カトリック教会はゲルマン諸部族との結びつきを強めて行った。ローマ教会から派遣された宣教者たち、フランク族をはじめとするゲルマン人の支配層を、当初彼らが受容したアリウス派からアタナシウス派のキリスト教へ改宗させていった。
8世紀以降キリスト教世界における主導権をめぐる争いが生じた。聖像破壊運動や教義をめぐる論争
9世紀以降東西教会の分離
1054年西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会が最終的に分離した教会と定められる。東西の並立
6世紀以降6世紀以前に大陸よりも早くアタナシウス派のキリスト教を受容したアイルランドの聖職者たち、ブリテン島や大陸へ布教を行う。(アイルランドでは聖パトリックが432年にキリスト教布教)
8世紀以降東方正教会、バルカン半島から北東ヨーロッパのスラヴ人に対する布教活動。正教会による東方キリスト教世界が形成される。
7世紀以来「贖罪規定書」が修道士によって作成される。

時間と空間のキリスト教化

キリスト教は、ゲルマン人、スラヴ人に速やかに広がったわけではなかった。

中世初期のキリスト教会によって時間と空間のキリスト教化が試みられた。

カトリック教会は多神教であったローマ人やゲルマン人の祝祭日をキリスト教の祝日や諸聖人の殉教の記念日へと読み替えて行った。→ゲルマン人の習俗におけるキリスト教化を試みた。

キリスト教空間化は殉教者の聖遺物が保持された場が聖別された聖なる空間とされ、新たな教会堂や修道院が創建されることで進められた。

司教と修道院の役割

5世紀から10世紀(初期中世の時代)ライン川とドナウ川以南のヨーロッパではローマ人の建設都市(ゲルマン人の大移動後も継承)
4世紀以降の西ローマ帝国の危機→ローマ時代のキヴィタスの政治的行政的機能の収縮→カトリック教会によって継承

司教座:キヴィタスに設置された、司教が常駐して地域のキリスト教化の拠点(西ヨーロッパ諸地域の教会組織の発展に主導的役割を果たす。)(五世紀以降、宗教的、行政的中心となっていく)

司教は典礼と俗人信徒の司牧を司っただけではなく、住民間の紛争の調停や貧者救済、橋や道路の維持に努めて、その社会的権威を高めた。カロリング朝(751~987年)以降、政治的、軍事的な役割も担う。司教はフランク王から裁判権や免税特権を与えられ、領主として司教座を中心として一定の領域を支配。

カロリング・ルネサンス:カール大帝(742-814)統治期の宮廷で進められた、文化的活動(聖職者のラテン語教育など)の担い手として重要な役割を果たした。

結果、司教座は中世都市の一つの核を構成することになった。

7世紀頃 北東フランス地域の司教座都市の人口規模(ランス:5,800人、アラス:4,000人、ソワソン:2,080人、トゥールネ:1,900人、ボーヴェー:1,450人など)

年代出来事
3世紀ごろ東方世界でキリストの使徒に倣って俗世の生活を捨て、禁欲的な修行の生活を贈る修道制が行われるようになった。
4世紀東方教会で聖バシレイオスによって小アジア半島のカッパドキアにおいて創始された修道制が基本に
5世紀以降西方カトリック教会で南フランスにおけるレランス修道制、アイルランドの修道制
6世紀ヌルシアのベネディクトゥス(480頃-546頃)がモンテ・カッシノに修道院を創設。ベネディクト修道会の成立。
539年ベネディクトゥス会則を定める。(西ヨーロッパの多くの修道会に採用される。会則では、一日を定時課と呼ばれる3時間ごとに区切られた祈りの時間で管理し、共同祈祷、瞑想、読書、1日6時間の手の労働が重視された。北西ヨーロッパにも多くの修道院を創設し、フランク王権とも結びついて、西方カトリック・キリスト教圏において支配的な地位を占めるようになった。)
7世紀以降ロワール・ライン川間の北西ヨーロッパを中心に古典荘園と呼ばれる大規模な土地経営を行う。

フランク王国

メロヴィング朝481-750年
カロリング朝751-987年

カール大帝(シャルルマーニュ)の統治期(768-814年):貨幣制度を金本位制から銀本位制へ改める。

非農業的定住地(商業地)(ヴィクス/ポルトゥス)

市場集落(カストルム/ブルグス)

9世紀以降 北方ノルマン人の侵攻→西ヨーロッパ都市的定住地→周囲を囲壁により防備(聖ジェリー修道院(カンブレ)、聖レミ修道院(ランス)、聖ドニ修道院(パリ近郊)等)

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